思ったことはすぐ書き留めなければ流れていく。恋人が優しかったことも、道端の女の子の表情にひどく傷ついたことも、最悪な味のお茶を淹れてしまったことも。「あとで」なんてない。わたしたちは自分が信じるより軽率に大切なことを忘れる。刹那以外を大事にしようと思ったのはどうしてなんだろう。書き留めたって全部どこかに行ってしまうのに

虚無あるいはつまらない

どこにも行けそうにない人とだけ話す意味がある

 

完全にガン細胞って感じの取り扱いにはならない。開業届もすぐ出したし青色申告はするし、部屋はずっといつも片付いてる。はっきりした病気で困ったことはなくて、自分のことをクズだとは思わない。

 

 

風邪

世界中の汚れを吸い込んでしまったような咳、これはお爺さんの音。一気に30歳は老け込んでしまう、だるい身体が意思に重くのしかかってくる。だからもう布団にくるまって、親指で船を漕ぎ始めた。綺麗なものはどこにでもある。清浄な感じのする言葉とか、色とか、線で、腐りかけみたいな肺をどうにかしてあげたい。


続きの話

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若芽のような青春がひとつ終わって、もうすこし枝葉の茂った生活のことを歌うようにしたのだろうか、という感じ。絶対にこれは適切な紹介ではないのだけど、足りないとかさみしいとかどうしようもない、どうしようもなかったっていう話よりももうちょっと違うこと話そうとしてるのかなあ、すごい上手にそういう話をしてくれたバンドだったけれど。青春の妖精のようだった。あらゆる恋が終わる夜や、一人の帰り道で必要な曲をたくさん贈ってもらった。

 

 

わたしが幻の吟遊詩人と崇め奉るPeople In The Boxの波多野さんとのデュオ大注目しよ…2枚目のアルバムフロッグクイーンまでの童貞感と3枚目からの非童貞感リアルタイムで聴いててアルバムタイトルとかコンセプトもあいまって鳥肌たつしアルバム最初から今のまで全部きいてほしい…だってデビューのミニアルバムがRabbit Holeでリードトラックの曲名がAliceなんだよ、最初からぜんぶ聞いて欲しいよ。どう説明すればいいかというと幻の吟遊詩人という感じです。感情よりも特定の現象を時間を区切って歌っていることが多いように思う。

「騒がしい臓器」と「穏やかな社会」って作品を対にしたりして発表したりしていて、なんかもう、センスがいい。いろんな場面で、著作物には共感をひっぱってくることがとても大事と言われてるけど、People In The Boxはとにかく説明のいらない状態で完成された皿というか、美しい読み物食べ物として作られてるように聞けるところが好きです。

 

 

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4

空が高い。雲の流れが早くて、沖縄に突然の雨が多い事にすごく納得がいったし、ここが水の惑星であることも腑に落ちる青。

どのぐらい高いところに雲があるのかわからなくなってくらくらした。高い建物がなくて視界がひらけているからだと思うけれど、11月でもまだ太陽の匂いが濃い。所々に見える沖縄の墓は、家に見えるが元々のモチーフは女性器だと同行した女の子から聞く。こんなに綺麗な光があるところでも、還る場所を最もヌメヌメしてたりジトジトしてたりする場所に置くのは人の業って感じがする。

 

有名な水族館はただの水族館だった。サメの性器が年別に写真に収まって展示されていたことが印象的だった。わたしがもし特定の悪魔だの、宇宙人だのだとして、人間動物園を作るなら真っ先にやることはこれの真似だと思う。そんなことよりも、水族館の隣にある海の透明度と、海が近くなっても香らない潮の匂いに皮膚が粟立った。「ない」ものに戦慄したのはいつぶりだろう。

わたしはベタを飼っている。きれいな水槽からは匂いがしないことを知っている、けど、海もそうなの?遠く沖の方まで底が透けてる、こんなに見せて大丈夫なのかしら、12時の空が1番明るくなる瞬間には、それまで緑がかっていた海の色まで深く透明な青に見えた。きれい。不味いご当地ハンバーガーを食べながらベンチでその瞬間を眺めていたら、シーサーの化身のようなお嬢さん2人に「食い意地張りすぎ」「キモい」などと言われるイベントに遭遇。言われたまま無言で写真を撮っていたら立ち去られたのだけど、その写真はもうカメラロールに無い。ホラーだ。不味いハンバーガーと優しくないお嬢さん、昨日のイベントとは180度違うね、時は流れて人は死ぬ、海は、ずっと美しいといい。砂浜にはサンゴの死骸がたくさん落ちていて、周りには修学旅行の高校生がたくさんいて、海に入ってはしゃぐのは幼女ばかりで、心の中で脈絡なく「死なないでよ」と呟く。

 

 

海の匂いがしない理由、後で調べてみたら、海藻がないからプランクトンがあんまり繁殖しなくて、その死骸の匂い、イコール、わたしの知っている海の匂いがしないということらしい。

エヴァンゲリオンの海もこんな風になにも香らないのかしら、でもこの海は命のない海、ではないはずなのに香らない、どういうこと。海は地球の血液のようだと誰かが言っていた気がする。動脈はどちらなんだろう。

こんなにも香らない、境界のわかりづらいものに四方を囲まれたり、ものを流されたり、船を沈められたりして暮らす人の海に対する認識ってどうなるんだ、こんなに香らなくても命が還ったり、生まれる場所だと思えるのだろうか。もっと土とか、緑とか、そういうものと地続きになりそうだけど、どうなるんだろう。「海は境界である」という認識に、なるのか?これ

 

3歳ぐらいのときに南三陸の海で、浮き輪でぷかぷか浮いていたらものすごい波に攫われたときのことを思い出す。鼻に水が入って濃い潮の匂いを感じたの同時に、圧倒的な敗北感が体を貫いた。勝てない、絶対に勝てない、こんなものに逆らってはいけない、そういう風に感じたのだけれど、海の匂い、たくさんの死体の匂い、そういうものがなくてもわかるのかしら。透明度が高くて潮の匂いがしない、どこまでも潜っていって、死んだことにも気づかないうちに死んでいそうな海。

 

 

鍾乳洞はキモい。 どう見ても病んだ器官の一部(そしてその病気はうつる)という感じがする。、そんな明らかに病気の器官から膿がはじけてたまに顔とか頭に落ちてくるからヤバい 音が響くところと響かないところがあるのも絶対に捕まえて殺しますという感じ。ここで死んだらわたしも石になるのか、むしろ石になりたい、誰も見つけてくれるな、やっぱり石にはなりたくない、という気持ちで揺れながら一目散に外に出た。

どんなに好きな人たちとでも、自分には2人以上での集団行動が不可能だということがわかり、諦めて一人で商業施設をうろつく。施設のおじさんとたくさん話して酔っ払ったり、旅行客にアイスを勧めながらたくさん話したり、アンパンマンの課金遊具でバイキンマンにアンパンチをしまくったりしながら外に出る。ここに沖縄の本質は一切ないなと感じたけれど、楽しかった。

蛇のお酒は体温がすぐ高くなる。

 

3

沖縄に私を知ってくれている人なんているのかしらと思った。いた。びっくりした。緊張して泣きそうなお嬢さんまでいたから、ああわたしはすべての地方の人に会いに行けるようにならなくてはならないし、絶対にもっと売れなくてはいけないし、もっと上手に柔らかいところまで触りに行けないといけない。

みんなきちんと物販を作ったり、接客をしたりしていて、自分の絵を適切な形でグッズにして届けるとか、見ていてにこにこしちゃうものにするとか、そういうことについて死ぬほど真摯なんだなと思った。うまく続けていける人たちはいつだってきちんとしている。わたしはいつものようにあんまり上手におしゃべりできなくて、似顔絵を描きながらずっと、いつから付き合い始めたんですか、とか、いまなにしてはるの、とか好きな色は、とか、興味のままそんな事ばかり聞いていたり、パンダを流血させられない理由について説明したり、好みの男の子が来てくださったのでわあ好みです、美しいですと言いながら似顔絵を描くために舐めるように見るなどしていた。本当にいつ死んでも殺されてもおかしくないな。

会場のハンバーガー屋さんはすごくいい人だったし、イベントに協賛してくれた会社の人もわざわざ東京からいらしてくれた。ありがたい事だと思う。そこで興味のまま質問しまくったり、私が楽しくお喋りしたり、私利私欲を満たしまくるのっていいのか?と思ったけれど、多分いいのだと思う。私利私欲をどれだけ拡張して充足させられるかを問題にしたい。

わたしが最も美しくて強い鳥

バスの振動が足元を揺らして、全部持っていかれそうになった。沖縄へ行く。どこへでも行く、行ける、大人だからたぶん。なんとかなる。もっと小さいときだって、本気で行こうと思ったところに行くときはいつだってなんとかなった。名前と年齢と住所と保護者、これさえあれば、これがなかったりするのか、秋晴れで、雑に植えられた名前のわからない木々が赤くもなく光る、バスが来て、わたしの他にはだれもいなくて、なんとなく1番後ろの席に座った。トイレの隣、酔うかな?バスの窓から見える植木はさっきよりもっと色褪せて見えた。

 

 

遠くから見る飛行機の飛び方はプライドで固められていた気がする。まっすぐ、美しく、そうあるべきものがそうあるべきように。「わたしが最も美しくて強い鳥なの」そういうかんじ。明らかに異質なものを、なんとなく噛み砕いたつもりで丸呑みにしてる、飛行機に対するイメージはそういうふう。

ベルヌーイの定理も、クッタの条件も、揚力のこともわたしは理解できない。

線路をものすごい速さで鉄の塊が走ることについてはなんとなく腑に落ちるんだけど、飛ぶということについては全くわからない。わからないままでも飛べる、お金があれば。なんだか美しくないことだと思いながら、当たり前のように飛行機は離陸して、わたしは地獄のように焼けた町と真っ黒い雲を目で追った。

 

 

 

 

「貧乏人はここにぶち込まれておけよ」と言わんばかりの格安航空会社のロビーに到着、雑な土産物屋さんや粗末な荷物の引き渡し場所が日常っぽくて良かった。なんの期待感もない。

 

泊めていただいた民家は善なるものの全てがそこで育ちそうといった風情で、

当然のように家族写真がたくさん飾ってあり、当然のようにその家の子供たちが作ったものがたくさん置いてある。水回りの動線のよさや台所の高さ、作りつけられた家具から、建てた人から住まう人、使う人への愛を感じた。たくさんあった植木の全ては元気だったし、絶対に悪役なんか生まれようのない雰囲気があった。こんな家で暮らしたとしても、人類は一定の確率で死にたくなったり、夜に暴走したくなったり、みんな死ねと叫びたくなったりする、脳の問題で。と思うと何をしても無駄かもしれない、と寂しくなる。美しい家を見るたびに思う、どんな絶え間ない努力と賢さと柔らかさ、理想の高さでそれが保たれているのかと想像する。平たい愛でどうにかなる問題では多分ないのだから、全神経を使って尊敬したい。仏壇にその旨を伝えるなどした。

 

夜、海に行く。海の透明度も潮の香りも黒く塗りつぶされていて何もわからない。シークワーサーの入った酒を飲みながらひたすら味の濃い鳥と豚を食べる。