わたしが最も美しくて強い鳥

バスの振動が足元を揺らして、全部持っていかれそうになった。沖縄へ行く。どこへでも行く、行ける、大人だからたぶん。なんとかなる。もっと小さいときだって、本気で行こうと思ったところに行くときはいつだってなんとかなった。名前と年齢と住所と保護者、これさえあれば、これがなかったりするのか、秋晴れで、雑に植えられた名前のわからない木々が赤くもなく光る、バスが来て、わたしの他にはだれもいなくて、なんとなく1番後ろの席に座った。トイレの隣、酔うかな?バスの窓から見える植木はさっきよりもっと色褪せて見えた。

 

 

遠くから見る飛行機の飛び方はプライドで固められていた気がする。まっすぐ、美しく、そうあるべきものがそうあるべきように。「わたしが最も美しくて強い鳥なの」そういうかんじ。明らかに異質なものを、なんとなく噛み砕いたつもりで丸呑みにしてる、飛行機に対するイメージはそういうふう。

ベルヌーイの定理も、クッタの条件も、揚力のこともわたしは理解できない。

線路をものすごい速さで鉄の塊が走ることについてはなんとなく腑に落ちるんだけど、飛ぶということについては全くわからない。わからないままでも飛べる、お金があれば。なんだか美しくないことだと思いながら、当たり前のように飛行機は離陸して、わたしは地獄のように焼けた町と真っ黒い雲を目で追った。

 

 

 

 

「貧乏人はここにぶち込まれておけよ」と言わんばかりの格安航空会社のロビーに到着、雑な土産物屋さんや粗末な荷物の引き渡し場所が日常っぽくて良かった。なんの期待感もない。

 

泊めていただいた民家は善なるものの全てがそこで育ちそうといった風情で、

当然のように家族写真がたくさん飾ってあり、当然のようにその家の子供たちが作ったものがたくさん置いてある。水回りの動線のよさや台所の高さ、作りつけられた家具から、建てた人から住まう人、使う人への愛を感じた。たくさんあった植木の全ては元気だったし、絶対に悪役なんか生まれようのない雰囲気があった。こんな家で暮らしたとしても、人類は一定の確率で死にたくなったり、夜に暴走したくなったり、みんな死ねと叫びたくなったりする、脳の問題で。と思うと何をしても無駄かもしれない、と寂しくなる。美しい家を見るたびに思う、どんな絶え間ない努力と賢さと柔らかさ、理想の高さでそれが保たれているのかと想像する。平たい愛でどうにかなる問題では多分ないのだから、全神経を使って尊敬したい。仏壇にその旨を伝えるなどした。

 

夜、海に行く。海の透明度も潮の香りも黒く塗りつぶされていて何もわからない。シークワーサーの入った酒を飲みながらひたすら味の濃い鳥と豚を食べる。